田植えをしながら収穫する国 | 因果倶時

田植えをしながら収穫する国

初ジャカルタ。
いろいろな意味で収穫ありました。


今日はひとつ、
固定概念を破られるような面白い話を聞けました。


インドネシアの人は比較的時間というものに対して大雑把ですが、
日本人駐在員ですら、
ジャカルタにずっといるとだんだん日付感覚がおかしくなってらしいです。


どういうことかというと、
「○○さんとそういえばいつか会ったけど、
あれは一体いつだったっけ????」
となるらしいです。


ジャカルタは赤道直下。
一年を通じてほぼ同じ気候。
だから景色が一緒なんですね。

日本には四季がある。
春がきて、夏があり、秋がきて、冬で終わる。
そのサイクルの中で、
あらゆる記憶が、
無意識にある季節的な光景と一緒にメモリーされる。

ジャカルタにはそれがない。
だからどの光景もすべて一緒になってしまい、
日付感覚、暦の感覚がなくなってしまうみたい。


例えば、
稲作なんかも、
田んぼごとに適当に植えて、適当に収穫しているらしい。
だから1個の田んぼでは田植え中なのに、
となりの田んぼでは収穫中、
ということが普通にあるとのことです。


こういうことって、
日本人からすると全く想像しがたいことじゃないでしょうか???
田植えの横で収穫中・・・・ 想像しがたいです。。


春になれば一斉に田植えをし、
綺麗に成長していき、
綺麗に整然と収穫される。

日本人はこういうことが美しいと本能的に思う。

日本人はいかに季節に恵まれているということを改めて感じるとともに、
一方で、ある意味季節に縛られてきた民族だということを思います。

時間に厳しいのも、
冬から逆算して冬仕度のために1年の日程をしっかり決めることが必要だったせいなのかもしれません。


東南アジアの人たちが大雑把で、
時間にゆるいのも、
こういうこともそのひとつの要因だなと考えると、理解できる気がします。


文化、生活、気候、土地、宗教、あらゆる要因が、
美的感覚に決定的な違いを起こしうる。

それは、
多様性の象徴である国というものが自然と形作られる上での、ひとつの大きな部分になりうる。


なんにしても、
ある民族にとってのスタンダードは、
ある民族にとってのスタンダードでは全くあり得ないということの、
はっとさせられるような気づきでした。


初インドネシア、
行ってよかった! 収穫沢山。