17時にさっさと帰国するアメリカ人の仕事の仕方から思ったこといろいろ | 因果倶時

17時にさっさと帰国するアメリカ人の仕事の仕方から思ったこといろいろ

以前アメリカにいたときもそうだったが、
基本的にアメリカ人の働き方はよく理解できなかった。
大体午後以降は大概の人がダラダラしている印象がある。3時を過ぎればもう気持ちは帰宅の準備に入っている。

その割にはクオリティの高い仕事を出してくるので一体いつ仕事をしているのだろうといつも不思議に思っていたが、要は、早朝から働いているんだなということを、今回出張に来て強く感じた。

だいたい8時からの朝MTGは普通だし、出勤も7時30分ぐらいから出社している。
New Yorkのタイムズスクエアには朝6時から人が沢山歩いており、朝食を食べている。そういう社会。

なんでそんなに早くから働いているかといえば、
つまりは17時になったらすぐ帰って、アフター5を楽しみたいからだし、
家族がいる人であれば、夕食も含めて家族とすごすのが当たり前だからである。

何しろ、
家族としばらく会えないぐらいなら、出張もしたくないし、できるだけ電話で済まそうとする人たちだ。

ちなみにこれは、
米国人がビジネスにあたってFace-to-faceを軽視しているということではなく、単に、Face-to-faceのコミュニケーションを行う労力に見合うROIが期待できるかどうかのバランスを判断する癖があるということである。

日本は1時間も移動すれば大概の人たちと会えるが、アメリカでは数時間の飛行機に宿泊、がついてくる。
当然、「時間」というものがどれだけ貴重なのかを当然のこととして理解している。


このような感覚は、日本人とは真逆ではないかと思う。

日本人は仕事のためには家族は多少のことを我慢する必要があるし、
もっと言えば、そもそも毎日毎日家族と過ごすべきだという発想すら無い。

「愛」というものをちゃんと表現しなければ、という感覚が薄いのが日本人の特徴であり、
日本人は、「家族への愛」よりも、
「コミュニティへ帰属していること」を強烈に意識する。
つまり「ハミゴ」になることをものすごく恐れるということ。
もちろんそうではない人もいると思うけれども、大抵の日本人はそうではないだろうか。

これは、日本の小学校・中学校での体験から来ていることだと思う。
どういうことかというと、一旦クラスの中でハミゴになってしまうと、誰も助けてくれないということ。

米国の学校でももちろんイジメはあると思う。これは映画やドラマを見ても明らかだ。
だがそういったイジメられた人間を救ってくれる友達・先生・家族が日本よりも圧倒的に多いのではないか?
米国では常にFightしろ、ということを教える気がする。イジメに対しては戦えと。
お前には価値がある。それをバカにするやつとは戦いなさい、ということ。
これは、実際に米国の学校に通ったわけではないので実体験としては語れないが、
学校に限らず、
あらゆるドラマや広告でも、このようなメッセージが発信されているのを見る限り、
そんなに大きな間違いはないと思う。

ヨーロッパでもそうなのかもしれないけれど、
おそらくアメリカ人はみじめな植民地時代から独立戦争を通じて勝ち取った権利、自分達の価値というものに対して強烈な思いを語り継いできたので、おそらく世界で最もこの価値観が強い国ではないかという気がする。

小さいころにこの価値観を刷り込まれた人間は、
大人になってもコミュニティの中で強制される価値観には染まろうとはしない。
少なからずの人間が、自分の価値が生かされるコミュニティに生きればいいと考えるはず。
そして、本当の意味での「つながり」は、家族の中に求めるんだと思う。

日本人の場合、学校での体験はまるで違う。
たまたま群れの中に入れれば良いが、群れから外れると誰も助けてくれない。
親も先生たちも、うまくとりなそうとはするが、Fightしろとは言わない。
Fightしてこいという話があったとしても、単に強いか弱いかの話になってしまい、人間としての価値はあまり語ろうとはしない。

これでは子ども達は八方塞がりだし、自分は何のために生きているのかが分からなくなってしまう。
痛烈に記憶に刻まれるのは、自分事であれ他人事であれ、コミュニティが自分に向かってきたときの恐怖だと思う。

こういった話は全て確率論の話であって、
誰も彼もがステレオタイプにそうだという話ではないですが、
全体の中での割合が全体に及ぼす影響を考えれば、
結果としての社会やライフスタイルの状態への影響は大きいと思う。


少し考えが脱線したので、
ひるがえって元に戻ると、仕事のスタイルが仕事のクオリティそのものに及ぼす影響も大きい。

何しろ17時には仕事を終えて帰宅しなければいけない(帰宅したい)ので、
あらゆることについて無駄は極力省かれる。
当然、細かなクオリティは無視されてくるが、その分もっと大きな見返りが期待できる。
それはつまり、常に「大きな幹しか見ない」ということであり、
その「大きな幹をどれだけインパクトの大きなものにするか」に全力を集中できることになる。

こうなると、一番重要なのは、「大きな幹が何であるのか?」となる。
これを考え、決定し、組織の中に必要なWorkとして切り出すのが経営者やマネージャーの役目となる。
そして、Micro managementはせずに個々の担当者に出すべきアウトプットを指示する。
担当者はそのアウトプットのことしか考えない。
このときにキーワードとなるのは、「プロフェッショナリズム」。
つまりアウトプットがその人間の給与に見合う内容かどうか、ということ。


見合わない内容であれば結果は明白。
すぐクビになる。もしくは給与が下がる。
だからみな、大きな幹に対しては必死になる。

だけど17時には帰りたい。だから他の細かなことはなるべく無視して、仕事=ミッションを単純化し、早朝から働く。

こうやって、チームとして大きな幹はブロックのように組み合わされて実現される。
個々のワークの質は極めて高く、Decisive。きっちりその結果が評価される。
他のことは何をやったとしても、出すべき結果に関係がなければ殆ど評価されない。
みな、プロとしての仕事とアウトプットに対してお金をもらっていることを知っている。

こうやって大きな幹が実現されたはずなのに会社の業績が上がらない。この結果も明白。
経営陣が給与カットもしくはクビになる。


日本はどうか。
給与の違いが殆ど無いので、自分自身の結果に対するシリアスさを本当の意味で体感するのが難しい。
そうすると、
自分が出すべき大きな目標=価値に集中できず、
それよりもコミュニティに帰属するための些末な部分に時間を割いてしまう。
その結果、夜遅くまで仕事が続き、つねに脳みそ70%の状態で体力の限界まで仕事をしてしまう。
結果、仕事の結果もつねに70点となってしまうし、組織の力もつねに70%しか発揮できない。
経営側は、スタッフの給与をあまり上げたりしてギクシャクしたくないので、
緩やかにあげられるような評価体系を使いやすいと感じてしまう。
つまり、仮に120点の業績をあげた人間がいても、見返りは少ないということ。
人間の特性として、90%の人間が、「それだったら適当に力を抜きながら仕事をして、職場を楽しく過ごすことにパワーを割こう」と思う。
そしてハイクオリティな人間はもっと評価される環境を求めて外部に去っていく。
こんな循環にはまりがちな気がする。


「信賞必罰」という言葉があるが、
日本では信賞の概念は曖昧であり、必罰の概念は皆無。
これはなぜかといえば、一つには、個々の気持ちに依存するからであり、気持ちを大事にするから。

もう一つはもっと深刻な問題で、
そもそも幹部陣が、部下に対して信賞必罰を厳密に実施できるほどの戦略的な決定、目標の明確化を出来ていないからである。
これも結局は、幹部陣自身に対するGovernanceが皆無に等しいからだと思う。
日本は失敗しても本当の意味での責任は誰も取らない社会主義国。「言うのはタダ」みたいなところがある。

Don't make a lie to your policies.
Stay true to your strategic priorities.

あるカンファレンスにて、別々のCEOがそれぞれの言葉で語っていたものです。
言ったことは、真実であるべきで、経営者は、その為に努力しなければいけないと。
その場の「経営のための詭弁」ではダメだと。

もちろん世界で一番進んでいるかのように言われているアメリカ企業の経営者であっても、
人事制度や評価という問題に完璧なソリューションはなく、常に頭を悩ませている。

自分達も今、理想を持ってやっているし、その理想に少しずつ向かっているが、
まだまだ実が伴っていないところがある。
その理想を発信することが誰にとっても恥ずかしくないものである状況を作り出すのが自分の大きな仕事の一つであり、それに沿ってチームを作り、仕事を評価しなければいけないということを、改めて意識していこうと思う。
僕らは日本チームではなく、グローバルチームなので尚更。


という、
日本人らしいダラダラとした考察で久しぶりのブログを終了。