因果倶時 -66ページ目

同じ苗字あるのかな?

ちょっとトラバテーマに反応してみた。

僕の母方の姓は、「灰川」という。

いままで散々引っ越したし、気になって色んな町の電話帳も調べたけど、「灰川」さんにはお会いしたことが無い。

「灰川」って名前の人、いますかー?

究極のエレクトロニクス商社

デル・コンピュータという会社;世界No.1のコンピュータ会社として認識されているが、なんと特許は20件しか持っていないんだって。

最近友人にもらった本;著者: 増田 茂タイトル: 覇者の条件―21世紀次世代eビジネスに向けて をいまさら読んでいて驚いた。

著者はこの会社のことを、「完全に営業の会社」と定義している。

僕もデルという会社をなんとなく誤解していた、メーカーのように。

でもよく考えてみたら確かにそうだ。あの会社にはオンライン直販によるBTO、大量にさばける市場に低価格品を大量に売りさばくという販売戦略以外、よく考えたら何もないじゃないか。

販売命なんだけど、実際の販売は営業部隊が担うわけではなく、ホームページが販売の前線となる。社内では商品企画だけを行う。
これって、もしかして実は究極のエレクトロニクス商社?

それにしてもデルで商品企画をする人たちって、一体どんな気分で商品企画をしてるんだろう。クールなものを作ろう、ってのとは余程違う世界なんだろうなぁという予想はつくけど。

感覚を鋭く

①「ビジネス・アーティストの時代」
②「右脳でやる仕事が重要な時代」
③「価値探しの時代」

①は私が昔お世話になった教祖から、②は友人経由聞いた米国の批評家、③は最新のPRESIDENT誌に載っている松下の中村社長の、それぞれ別々の方の言葉だ。が、非常に似たことを言っている。

つまり、「論理」でも「技術」でも「便利さ」でもなく、「感覚」がビジネスにおいてかつてなく重要になっている、ということを色んな方が言っている。ここでいう感覚とは、消費者を含む、エンドユーザー自身が気付いていないような潜在的な要求を掘り起こして表出させてしまうような、ディープな鋭い嗅覚と直感を示している。つまり所謂B2C系商売に直結する話だ。

この代表的な例として、「安全」と「安心」という概念がある。
供給者側はこれまで「安全(Security)」を提供していればいいとされていたが、今や安全は当たり前で、消費者側は「安心(Safety)」を求めている。
この十分条件を提供できて、初めて金が動くようになる。

ともすれば、この十分条件を提供する部分というのは、かなり意図的な虚構に陥りがちで、殆ど騙しの世界にもなり得るが、正しく誠意をもって「安心」を提供しようと努力すれば、それはそのビジネスのゆるぎないブランド力を築く元となり、海外勢なんかが攻めてきても簡単には崩壊しないIPとなる。
とはいえ、努力を怠れば、雪印のように白黒ひっくり返ることになる。

一方で、松下の中村社長はこうも言っている;「新しい価値を提案する新製品の場合、慎重に考えて市場に出すのが遅れるよりも、まず出してから考えたほうがいい

くぅー、僕がやった商品企画プロジェクトも、まさにそこんとこだけが未だに悔やまれるんだよなぁ、、、

ただ、この考え方には重要な示唆が含まれている;財務的・人的余力の高い大企業がベンチャー並みの創造活動をすれば、ベンチャー側の勝ち目は極めて薄い、ということ。ベンチャーが勝つ要素は、一点しかない;常に「背水の陣」を敷いている、ということ。いわば火事場のクソ力だ。

いずれにせよ、僕は自分がもがいていたとき、「ビジネス・アーティスト」という言葉を聞いて、「それだ!」とものすごく目の前が開けた。
所詮今の段階では何も知らないド素人が夢想しているだけだけど、それに一歩でも近づけるよう、頑張るぞ!

学生起業家

ここんとこ学生起業家がまた本格的に増えている気がする。

「本格的に」と書いたのは、所謂社会のほうにもそれをバックアップする経験者達がいて、アドバイスを与えており、学生側も縦・横両方の情報網を駆使しながら、事業の方向性や会社理念といったものをよく検討し、その上で新しい発想を盛り込んで会社を運営しており、実態はともかく、ちょっと以前とは起業の中身が変わってきているように感じるのだ。

僕なんかが学生のころは就職や社会のことなど露ほども考えず、ひたすら部活に打ち込んでいた。 それはそれで打ち込んだなりに得るものがあったわけだが、やはり、中学や高校ならいざしらず、大学というのは社会に出る一歩手前の準備をする場である、ということを考えれば、4年間という長く、そして若い貴重な時代を、まともに将来のことを考えずに過ごすことの代償は、今の時代、昔とは比較にならないほど大きくなっているのではないか?
昔は部活に打ち込んだことのデメリットなど取るに足らないもので、ビジネスの知識は社会に出ればおのずと得ること出来ると思っていたが、このごろの学生起業家の活動内容を見ていると、そうでもないなぁ、と思う。

特に一流大学の体育会系人材に対する企業側の需要は比較的高いと言われているが、考えてみると、なぜそういう人材が好まれる傾向があるかと言えば、いわば、体育会が社会の縮図を提供しており、その中でもまれた人材と想定されるからである。

ところが、新しく起業した場合は、社会の構図自体を変革するパワーを持っているわけで、意図してそうしない限り、古い社会とは直接的には縁がないことが多いはず。古い社会の旧弊を良くも悪くもひきずっている体育会の伝統から得るメリットは、相対的に相当落ちている可能性がある。
大企業にしても、社会や経済構造の多様化という大きな流れの中で、伝統的な大きな組織による大きな単位の商売の可能性はどんどん少なくなっており、企業内起業を盛んにして細かくビジネスユニットを分け、積極的に外出ししていくことが、組織として不可欠になっていっている。
つまり、どこを向いても起業ということが求められるキーワードになるわけだ。

起業というのは自分とチームで創造していく作業であって、前任者から引き継ぐ作業とは本質的に違うわけだから、決定的にモノを言うのは発想と経験でしょう(ちょっと断言しすぎ?)。
とすれば、大学時代に学生起業家として活動することのメリットはものすごくデカイだろうなぁと思うわけです。

うーん、それにしても、この軍団に対抗して自分のポジション築くの、結構大変そうだな、面白そうだけど!


ところで、どうもこの分野に関する意識レベルでは、東京勢が関西勢その他地方勢を圧倒しているように感じる。
なんででしょうね?それとも僕の感覚が間違っていて、単なる情報不足なのか?

いちご狩り

いちご狩りって、行ったことのない方ー?
マジで、絶対一度は行ってみることをお勧めします。
僕は今日始めて家族と一緒に行ってきましたが、想像以上にイチゴがウマイ!
採りたてのイチゴというのはこんなにウマイものかと、感激しました。
妻が小さいときに72個食べたという話を聞き、「おいおい、そりゃ食い意地はりすぎやぞ」と突っ込んでいたのですが、実際気づいたら自分も40個以上は食いましたねー
日頃イチゴというと目の色変えて人の分まで横取りするうちの子も、大満足。きっと彼には天国のように映ったに違いない。満足しきった笑みでこちらの親バカぶりを加速させてくれました。

ちなみに今日行ったのは館山のイチゴ園です。

帰りは途中で保田にある、「ばんや」というところで魚三昧。
私はイナダの煮付けを頼みましたが、イナダが半身も出てきて大満腹でした。
その他、寿司、サザエつぼ焼き、アジのから揚げなど頼みましたが、どれもこれも値段も量も大満足でした。これまた、オススメです。

んなわけで、千葉県を大いに見直した、今日一日でした。

外資系

今日テレビを見ていてて改めて思った。

この国のCMは白人と欧米の町並みが多すぎる。
なんでこんなに白人と欧米なんだ?
およそ関係の無さそうな製品のCMでもしょっちゅう使われる。

出張で韓国や中国、その他アジアの国にいっても、こんなにCMで白人が使われているという印象は無い(見逃してるだけか?)
まして、日本では殆ど街中に白人も黒人も見かけない国だ。欧州の町並みだって全くかけ離れている。
なのに、白人と欧米で製品イメージを出そうとする、このチープな戦略、、
ウザイ!
そんだけ日本人には白人・欧米文化に対する憧れが摺りこまれてんだろうなぁ。。。

うちでは冗談半分に、隣のオジサンは外資系勤めだよ、という事がよく言われる。
ここで言う外資系ってのは、韓国系企業の話だ。
それも勿論三星やLGなどの大企業ではない、在日韓国人が経営する、中小地場企業の話だ。

そう、これも立派な外資系なのである。

でも、僕達は無意識に外資系というと欧米の企業の日本の出先、という印象を持たないだろうか? 多分このblogを読む人の90%以上がそういう意識だろう。

今後、中国やインドに代表される成長圏の企業が日本企業を次々と買収に走るだろう。
中国人の方には申し訳ないが、これから日本で働く普通の日本人のボスが中国人、ということが普通に起こりうるわけだ。
逆にそういうことが起きないと、日本がいつまでも純血主義体制で推移する=文化・頭脳の交流がなく、衰退してしまうに違いない。(蛇足だが、僕は発展というのは混沌とした文化や思想のぶつかり合いから発生すると思っている。アメリカがいつまでも世界をリードしているのは多種多様な人種・民族が交じり合っているからだし、国内で東京が大阪に圧倒的な差をつけたのも、東京は日本中から色んな地方の人間を受け入れているからだと思っている)

だからどうこうというわけではないけど、少なくとも日本を代表する企業で広告を考える人たちには、もう少し、安易に白人・欧米・カタカナ文字に走るのではなく、日本語・日本の風景・漢字/平仮名、で勝負して欲しいものだと思う。(ここまで書いてきて、実はいまの会社の幹部には特に、そのカタカナ文字で事業戦略を書く癖を辞めろ、と、そういえばそう言いたかったな、と思い出した

インターネットは距離を超えるか?

堀江社長が興味深いことを言っている(ネットは新聞を殺すのかblogより)。
日頃殆どインターネットに関係のない業務をしていても、所謂ネットバブルがとうに終焉し、実態社会とネットの関わりが本格的な段階に入り、ネットをビジネスのフィールドとする企業にとって正念場がやってきていることを感じる。
インターネット上の世界が真に日常的なコミュニティの一部として人々の生活に溶け込んでいくというのは漠然と感じていることであったが、blogというものがそれを象徴的に表しているとともに、加速させているのだろう。

いま、情報産業の世界では、あらゆる「とりあえずネットに乗っけてみたらそれなりに商売になったよ」的な商売がことごとく頭打ちからシュリンクに陥っていて、弱気になって撤退モードに入るところが多いが、ここで真剣に勝負をしかけられるかどうかは、もしかしたら、その個人・会社のIT産業における長期的なポジショニングに大きな影響を与える可能性があると、僕は思う。残念ながら今の勤務先の「ITバブルただ乗り世代」の幹部陣はそれに気づいてないご様子だが。。

インターネットの特徴、それによって可能になることを、あれこれ考えていて、ふと思い出したことがある。
それは半導体の世界で有名な「ムーアの法則」に限界が近づいており、電子の世界から光子の世界へといずれ移行するだろう、そしてその時に最後に絶対的な壁として立ちはだかるものは、結局、「距離」であり、「距離」を制するものが次の時代の覇者になる、というような説だ。誰の本だかは覚えていない。

インターネットというものは、様々な時間的・物理的障壁を取り払うことを可能にし、個人と集団の力関係を一定のレベルに均一化する働きを持つ。しかし、どんなに便利になったところで、今のところは「情報」を効率良く取り扱うための新しいルートを提供しているに過ぎない。
ところが、全ての情報はその「Source」を持っていて、この「Source」というものは実社会における実体であり、その実体は「距離」をもった彼方に存在している。いくら情報を得たところで、人間は人間自体が「実体」である以上、その「実体」に触れたいという欲求を根本的に抑えることが出来ないだろう。

こう考えると、インターネットは、結局のところ、インターネットを支えている半導体という実体技術と究極的な問題点を共有しているかのようにも見える。

別にこの単なる思い付き的な議論に結論的なものを提供する気はサラサラないんだけど、「距離」の概念に関して昔バイト先の運送屋のオッサンが言っていたことを思い出す;「君達な、就職先はどうするんや? あのな、運送屋ってのは地味だけど絶対なくならん仕事やで。人が生きとる限り、物の流れが起きるんや」

もう一度この言葉の意味をしっかり考えてみようと。

下町コント:長屋の住人(2)

今日はネタも無いので、隣の長屋の話の続き。

で、長屋では今事件が進行中だ。

1階に住む勝手放題なオバサンと、2階に住むうるさ型の独身のオジサンとの間に戦争が勃発しているのだ。

この前も朝起きたら朝っぱらからケンカ;
(なにやらオバサンは出掛けるらしい)
(ドアを開ける音を聞いたオジサンが2階から)
「奥さん、今日はゴミの日じゃないんですよ」
「なんでしょうか?」
「ゴミ捨て場にゴミ出してるでしょ? 今日はゴミの日じゃありませんよ」
「知ってるわよ。だけどゴミ出さないと家に虫が出るでしょ。しょうがないじゃない」
「奥さん、共同生活なんだからルールは守らないと」
「だってしょうがないじゃない!」
「ちゃんとやって下さいよ!」
「やってるわよ!」

、、、オバサンはそのまま出掛けてしまったのであった。

ある時期、オジサンは暫く長屋の共同の塀を自分で一生懸命修繕していた。
もともと大工さんだということだ。
オジサンは何日かかかって塀を修繕した(俺って偉いよ)。

数日後、目が覚めると、大工が入っていた。
古い塀は壊され、新しい塀に立て変わっていた。
1階のオバサンが大家に塀のことで文句を言って、変えさせたという噂だ。

先日オジサンが突然うちにお土産を差し入れてきた。
うちの家の人間はよく挨拶してくれるので、、、という理由らしい。
しかし話題は突然「あのクソババァ」の話になり、滔々とグチをこぼされたお義父さんはかなり辟易したそうな。

我々一家はその滑稽なほどベタな近所ゲンカ振りに実は隣でヒソヒソと噂しては爆笑している。
(性格悪い?)

ちょっと、これ。

あれあれ、、ワラシベ来たぞ。
やばいやばい、時は金なり。
(すんません、かなり限定ネタです)

http://adinnovator.typepad.com/ad_innovator/2005/02/peerflixnetflix.html

今日は同期が送別会を催してくれた。

日頃ご無沙汰な同期も沢山集まってくれたが、みんなそれぞれが自分の領分と仕事を持ち、中堅と呼ばれる世代になりつつあることを実感した。

大企業というのは結局、この人を育成する、ということがそれなりに出来て初めて存続するのだろう。
人を育成するシステムのあるなしは、その会社が長期的展望を持った会社かどうか、ということを如実に表していると思う。

それにしても、いよいよ、8年間勤務した会社との別れが近づいてきた。

帰り道、感慨深さと寂しさを同時に感じながら、一歩一歩歩いた。

同期の皆さん、Thank you!