因果倶時 -4ページ目

ウェーブ

自分のクリエイティビティが衰えたとは思わないけど、
そもそもクリエイトしていないということは非常に感じる。


今日なんかも、
以前作った仕様案を引っ張り出して見ていて、
完全に、数年前の自分に負けていると思った。



昨日S野さんと話していて感じたが、
彼は非常にまっとうで堅実な考え方をする。


それは、責任ある一人の事業責任者として、
あるべきひとつの姿だと映った。


一方、
自分はやはり、
どこまでいっても、
事業責任者というよりも、
一介のクリエイターであり、
クリエイトをし続けていたい人間だということを痛烈に感じた。


というと言い方はいいけれど、
要は、
単に山っ気があるということなのかもしれない。


マグロは、
泳ぎ続けていないと死んでしまう。
そんな感じかもしれない。


というわけで、
最近動くことを嫌がりがちな手にハッパをかけて、
そろそろ、
クリエイトしなければ。





だから、
ウェーブ来い!

じびょう持ちの4歳

4歳の娘が、

 わたしにはー
 ゆめーがあるー
 きぼーがあるー
 そしてー
 じびょーがあるー

という
どこかのCMの歌にはまって歌いまくっていて、
爆笑~

何かを突き動かすもの

http://bit.ly/cHxV1P

は非常にExcitingで示唆に富んだエントリー。


これを読んで改めて感じたが、
組織は、
何を目的にして集まっているのか、
が、やはり全てだと思った。

目的のない集団は、
いわゆる「何でもあり」になる。

目的のない集団は、
道しるべがなく、
企業間競争に明け暮れ、
拡大競争に明け暮れる。

数字を追い、
いつのまにか、
数字に追われてしまう。

隣の芝生を羨ましく感じてしまう。

目的のある集団は、
そういうことに惑わされない。

ウサギがピョンピョン飛び跳ねて右往左往している間に、
カメのように一歩一歩進んでまっすぐな道を歩み、
未踏の領域に踏み込むことに注力する。


ハッカー論的なものになっているが、
重要なのは、
ハッカーを突き動かすような組織の目的がそこに存在してるか?ってことだと思う。
ハッカーを集めることが重要なのではなく、
実現したい目的に心意気を感じてくれるハッカーを仲間に引き入れることが大事。

そういうチームが、シリコンバレーの魂であり、世の中をFascinateする源泉だということを、
改めて実感!

仕組みの殆どは機能しない

チームを作って運営をしていると、
いろいろと仕組みを作ろうとする。

ところが、
殆どの仕組みは大して機能しない。


うちも今若干そんな感じかなー。



こういうとき、いつも思うのが、
昔の組織は、
ぜんぶ書面でやり取りしていた。

書面作るの面倒だなーと思いながら仕事をしているわけだが、
実際のところ、
書面のほうが全然効率的な局面は大量に存在する。

電子ファイルになることで、後日に振返ることが簡単になるとか、
ナレッジが共有されるとか、
そういうことをみな考えるわけだが、残念ながら、まったく誰も振返らないのが現実である。
実際、自分も殆ど見ない。

だったら、なんのために電子化するのかと。
それとも、そういうものを見ない自分がダメ人間??




もうちょい様子見るけれど、
なんか考えよう。

マネージャー不要論

若い会社にいると、
しょっちゅう、
早くマネージャーを目指せ、
的な会話が繰り返され、
マネージャーを目指さないことは何かかっこ悪いことのような概念が自然と出来ている。

しかし自分は全くもってそうは思わない。
それどころか、マネージャーという職種は不要、もしくはいない状態が最適だということを最近思う。

必要なのは、何を実現したいのかという意思を明確にもった少数の行動型の人間のチームであり、
マネジメント、場合によっては経営業務ですら、
それを主業務として行う人間が不要な状況が最高の状況であり、
かつ、これからのサービス開発・商品開発において必要な状況だと思う。
つまり、全員がプロジェクトを進行させるために自己管理することが当たり前、という状態。

ある意味、逆説的に言えば、
マネジメントが必要な状態とは、
メンバーの力量がその程度のものと認識されている状態ということとも言える。
メンバーとしては、常に、
「あんたなんか不要ですよ、自分で出来ますから!」
ということを主張し、証明する必要がある時代じゃないかと。

たまにあるが、
「すごく出来るマネージャー」に感謝してる場合じゃない。
そんな中間コスト要素は蹴っ飛ばさないとダメなんじゃないかと。

世の中は、
あまねくいろいろできますよ、の意味でのジェネラリストの時代ではなく、
専門職の時代。

企業経営やその下の事業経営も、サービス運営も、なにもかもが専門職であり、
専門性の高さこそが世の中に衝撃を与えるような何かを生み出すための源泉。

そして、衝撃を生み出さないようなものをいくつ生み出したとしても、
それは自分達を養うための手段にすぎない。
今度はその手段を維持するための手段を作りだすことに追われてしまう。

面白いのは、
きっと、
それを軽く超えたところに存在するもの。
そこにリーチするのに必要なのは自分自身の創造への想い。

だから、
マネジメントという言葉に立ち戻れば、
他人や組織をうまく管理していくための
マネージャーなんか目指す必要はない。
必要なのは、
自分の意思をまず持ち、そしてそれを実現していくための組織マネジメントスキルだ。

この考え方は、
マネジメントを、
「チームが気持ちよく働く、メンバーの成長を促すためのワーク」
としての意味が第一義と考えがちな方には聞こえが悪いと思うけれど、
本質的にマネジメントとは、意思実現の為にある、と自分は思うので、
そこを勘違いしないようにしたほうが良いということを、最近良く感じる。

この話は、
第一義とその他の意義の順番をどう捉えるかという問題であって、
結果的にやるべきことのラインナップに変化はなさそうですが。


どうだろう。

人生、残り100単位

リーダーの仕事の中には、
人事評価とか
進捗管理とか
何かをするための準備を進めるための準備とか
なんたらミーティングの設定とか
お悩み相談とか、
いろいろあるわけですが、、、

それらに忙殺された1日を振り返るとなんと社会的生産性の低いことかと思わざるを得ない。

生産性を上げるには、
具体的に生産すること命。

生産すべきものは、
内部ではなく、
外部に対するもの。

すべてのリーダーの業務の評価は、
外部社会に対して何を生産し、古い価値を大きくし、さらに新しい価値を生み出したか、でしか決定されない。

3ヶ月、何の変化もなく、具体的な外部に対するアウトプットのない組織・個人があったとしたら、
それは既におかしな状態であり、業務を抜本的に見直す必要がある。
それはリーダー個人にとっても全く同様と思う。

四半期とは単なる会計上の概念ではなく、新規価値を生み出すための1生産単位。

仕事人生を仮に60歳で定年と考えれば、
あと25年。残り生産単位は100単位しかない。

ちゃんと生産していかなければ。
四半期に1つは確実な何かを。
あらゆる側面で。

指標、に安住しない

事業運営をしていると、
「指標」
というものが出てくる。

ネット業界であれば、
基本的にあらゆるデータが追跡可能なため、
「指標」は、
設定しただけ取り放題である。

この「指標」というものは非常に便利で、
便利というよりも、必須ということにされているけれど、
あくまでも、「組織運営のための便利なツールにすぎない」、ということを忘れてしまうとろくなことはない。

そもそも、事業責任者になったことのある人であれば多かれ少なかれ経験があると思いますが、
指標は、
そもそも何を指標にするかを決めるのが一苦労。

なぜかといえば、
「これだけ追っておけばいい」
なんて指標はどこにもないから。

事業は、
総力戦であり、
全ての指標において競合を凌駕したものが勝つというのが当たり前の事実。

とはいえ、
何もかもを組織目標としておってしまうと焦点がぼやけて逆に何も追えなくなってしまうので、
「指標」を頑張って決め、そこにわかりやすく焦点を当てて追いかけていくのが手法として有効になる。

つまり、これはあくまでも、
「組織」に「組織成果」を一番わかりやすく伝えるための手段にすぎないのであって、
そこだけにフォーカスを当てていればいいというわけでは全くない。
むしろ、その指標が変化してから何かの手を打っても遅い。

変化する前に手をうつべく、
全ての間接データをつねに把握しておくことで細かな変化の兆候を感知し、
問題にもならないような段階で徹底的に問題をつぶして全ての指標を右肩上がりにできるよう手を打っておき、
常日頃から当たり前のように総合力をあげていくのが責任者の仕事。

指標は事業にダイレクトなインパクトを与えるという意味で重要な部分ではあっても、
あくまでも全体の中の結果としての一部分にすぎない。

まして、競合他社・競合サービスがあれば、自社指標だけ追っていれば世の中の大きな変化の中で、
自己満足のような間の抜けたことになりかねない。

指標にとらわれることなく本質的に何が重要なのかをちゃんと把握し、超えられない壁を日ごろの努力で地道に越えていき、さらに、一気にそれまでのスタンダードから飛躍するような仕掛けを常に考えることに頭を振り絞り、そのための情報インプットを続け、自分なりに工夫して、施策を投入し続ける。
そうやって、組織に、達成するべくして指標を達成させる。
その頃には、とっくに次の手を見据えている。むしろ、すでに着手している。
それは、まだまだその重要性に気づいていない、
「いったんここで達成を楽しもうよ」、というチームとの、孤独な戦いでもある。

「指標」を選定したことによって切り捨てられてしまった部分に、
責任者だけは常にウォッチを忘れないようにする。
指標、に安住しない。

ヴォーバン

『ヴォーバンが築いた城は落ちることなく、ヴォーバンが攻めた城は必ず落ちる』


かっこ良すぎ。


定説、通説、常識は、
全部、
ある特定のシチュエーションの中での、特定の関係者によって作られた力関係の結果に過ぎない。


それを如何に乗り越えて突破するかが、
勝負の面白いところ。

英語のできない日本人がやるべき国際事業

英語が出来ない奴をクビにすべき3つの理由

という刺激的なタイトルのブログ記事があがっていたり、
楽天の三木谷社長が英語の出来ない役員をクビにするとか言っているので、
実際になんだかんだと、
英語がたいしてうまくもないくせに成り行きで海外事業を何度もやっている自分の観点を、
ちょっと書いておこうと思う。


まず、
日本人は英語が下手だし、
これからも永遠に下手であり続けるでしょう。

理由はシンプルで、
日本はほぼほぼ日本人だけで生きている国だし、
日本は経済的だけでなく自然・気候的にも非常に豊かな国で、
ご飯もおいしいし、
生活のためだけであれば、他の国に行きたい理由も特に無いからです。


それなのに日本人が海外に目を向けなければいけない理由は、
経済的に豊かな生活は海外から外貨を獲得して食料と資源を買わないと維持できないから。
そういう、経済的な理由だけ。

なので、別に全員で海外に目を向ける必要はこれっぽっちもないので、
英語は、英語のうまい人に任せておけばいいし、海外が好きな人に行かせてあげれば足りる。
そういう人に対して高度な教育が可能な環境だけ用意しておけばいい。


となると、国内市場が飽和してしまったとかの理由で海外進出したい企業はどうやって海外事業をやればいいのかといえば、一番簡単な方法は、

「英語で説明する必要のない事業をやる」

ことです。

超簡単。


たとえば、ハード事業であれば機能を示せば足りる。それに価格が見合うようにすればいいだけです。
しなやか加工しやすいのに硬度も高い鉄を売ればいいし、
例えば、頑丈で燃費が良く、安い車を売ればいいし、
容量が最高で、耐久力も抜群な電池を売ればいい。
ある意味、こんなに簡単な事業はないです。もちろん国際間競争は大変厳しいですが目標は明確です。

日本企業がこの分野で大きな成功を収めてきたのはこれが理由だと思いますし、
日本人の技術力は世界最高レベルなのでこれからも成功すると思います。

オンライン事業であれば、
コンシューマー向けサービスが一番分かりやすい。
面白いかどうか、使いやすいかどうか、だけが勝負なので、
そこで感性に訴えかけるすばらしいものを作ればいい。
そもそも説明が必要になるようなオンラインサービスは誰も使わないので、
当然英語での説明も必要なし。日本からサーバー立てて提供することも出来る。

この分野でも日本人はおおいに成功できる可能性があると思います。
なぜなら日本人の感性は、ちょっと面白いから。


となってくると、
一番難しいのは情報ソリューション事業です。

情報ソリューション事業はBtoBだけに、説明が必要です。
それに、自社にしか提供できない情報ソリューションというものは殆ど存在しないので、
つまり、
インテリジェンスと論理力の勝負です。
この、インテリジェンスというものは殆ど数字化できないものだし、
数字化したところでそれがお金になるかどうかはあまり関係なかったりする。
論理=筋が通っているかどうかを前提とした上で、
冒頭に取り上げた記事のように、人脈やブランド戦略の勝負だったりする。

こうなってくると確かに、ネイティブ並みの英語力とカルチャー理解がないとなかなか簡単にはいかないです。
唯一の戦略は、超英語ができるやつを雇うか、現地の人間に任せるかですね。

それにそもそも、
日本人は情報とか知識とかを体系化したりする、
いかにも西欧的な考え方はとても苦手な、
「わびさび」や細部に隠れた「粋」の美学を重視する感覚民族です。

残念ながら、
「見ればわかりますよね?」
「大体読み取れますよね?」
という話は外国では全く通用しないから日本人は困るw。


というわけで、
説明力が必須となる極力情報ソリューション事業で海外進出するのは避けるべし、の巻でした。

17時にさっさと帰国するアメリカ人の仕事の仕方から思ったこといろいろ

以前アメリカにいたときもそうだったが、
基本的にアメリカ人の働き方はよく理解できなかった。
大体午後以降は大概の人がダラダラしている印象がある。3時を過ぎればもう気持ちは帰宅の準備に入っている。

その割にはクオリティの高い仕事を出してくるので一体いつ仕事をしているのだろうといつも不思議に思っていたが、要は、早朝から働いているんだなということを、今回出張に来て強く感じた。

だいたい8時からの朝MTGは普通だし、出勤も7時30分ぐらいから出社している。
New Yorkのタイムズスクエアには朝6時から人が沢山歩いており、朝食を食べている。そういう社会。

なんでそんなに早くから働いているかといえば、
つまりは17時になったらすぐ帰って、アフター5を楽しみたいからだし、
家族がいる人であれば、夕食も含めて家族とすごすのが当たり前だからである。

何しろ、
家族としばらく会えないぐらいなら、出張もしたくないし、できるだけ電話で済まそうとする人たちだ。

ちなみにこれは、
米国人がビジネスにあたってFace-to-faceを軽視しているということではなく、単に、Face-to-faceのコミュニケーションを行う労力に見合うROIが期待できるかどうかのバランスを判断する癖があるということである。

日本は1時間も移動すれば大概の人たちと会えるが、アメリカでは数時間の飛行機に宿泊、がついてくる。
当然、「時間」というものがどれだけ貴重なのかを当然のこととして理解している。


このような感覚は、日本人とは真逆ではないかと思う。

日本人は仕事のためには家族は多少のことを我慢する必要があるし、
もっと言えば、そもそも毎日毎日家族と過ごすべきだという発想すら無い。

「愛」というものをちゃんと表現しなければ、という感覚が薄いのが日本人の特徴であり、
日本人は、「家族への愛」よりも、
「コミュニティへ帰属していること」を強烈に意識する。
つまり「ハミゴ」になることをものすごく恐れるということ。
もちろんそうではない人もいると思うけれども、大抵の日本人はそうではないだろうか。

これは、日本の小学校・中学校での体験から来ていることだと思う。
どういうことかというと、一旦クラスの中でハミゴになってしまうと、誰も助けてくれないということ。

米国の学校でももちろんイジメはあると思う。これは映画やドラマを見ても明らかだ。
だがそういったイジメられた人間を救ってくれる友達・先生・家族が日本よりも圧倒的に多いのではないか?
米国では常にFightしろ、ということを教える気がする。イジメに対しては戦えと。
お前には価値がある。それをバカにするやつとは戦いなさい、ということ。
これは、実際に米国の学校に通ったわけではないので実体験としては語れないが、
学校に限らず、
あらゆるドラマや広告でも、このようなメッセージが発信されているのを見る限り、
そんなに大きな間違いはないと思う。

ヨーロッパでもそうなのかもしれないけれど、
おそらくアメリカ人はみじめな植民地時代から独立戦争を通じて勝ち取った権利、自分達の価値というものに対して強烈な思いを語り継いできたので、おそらく世界で最もこの価値観が強い国ではないかという気がする。

小さいころにこの価値観を刷り込まれた人間は、
大人になってもコミュニティの中で強制される価値観には染まろうとはしない。
少なからずの人間が、自分の価値が生かされるコミュニティに生きればいいと考えるはず。
そして、本当の意味での「つながり」は、家族の中に求めるんだと思う。

日本人の場合、学校での体験はまるで違う。
たまたま群れの中に入れれば良いが、群れから外れると誰も助けてくれない。
親も先生たちも、うまくとりなそうとはするが、Fightしろとは言わない。
Fightしてこいという話があったとしても、単に強いか弱いかの話になってしまい、人間としての価値はあまり語ろうとはしない。

これでは子ども達は八方塞がりだし、自分は何のために生きているのかが分からなくなってしまう。
痛烈に記憶に刻まれるのは、自分事であれ他人事であれ、コミュニティが自分に向かってきたときの恐怖だと思う。

こういった話は全て確率論の話であって、
誰も彼もがステレオタイプにそうだという話ではないですが、
全体の中での割合が全体に及ぼす影響を考えれば、
結果としての社会やライフスタイルの状態への影響は大きいと思う。


少し考えが脱線したので、
ひるがえって元に戻ると、仕事のスタイルが仕事のクオリティそのものに及ぼす影響も大きい。

何しろ17時には仕事を終えて帰宅しなければいけない(帰宅したい)ので、
あらゆることについて無駄は極力省かれる。
当然、細かなクオリティは無視されてくるが、その分もっと大きな見返りが期待できる。
それはつまり、常に「大きな幹しか見ない」ということであり、
その「大きな幹をどれだけインパクトの大きなものにするか」に全力を集中できることになる。

こうなると、一番重要なのは、「大きな幹が何であるのか?」となる。
これを考え、決定し、組織の中に必要なWorkとして切り出すのが経営者やマネージャーの役目となる。
そして、Micro managementはせずに個々の担当者に出すべきアウトプットを指示する。
担当者はそのアウトプットのことしか考えない。
このときにキーワードとなるのは、「プロフェッショナリズム」。
つまりアウトプットがその人間の給与に見合う内容かどうか、ということ。


見合わない内容であれば結果は明白。
すぐクビになる。もしくは給与が下がる。
だからみな、大きな幹に対しては必死になる。

だけど17時には帰りたい。だから他の細かなことはなるべく無視して、仕事=ミッションを単純化し、早朝から働く。

こうやって、チームとして大きな幹はブロックのように組み合わされて実現される。
個々のワークの質は極めて高く、Decisive。きっちりその結果が評価される。
他のことは何をやったとしても、出すべき結果に関係がなければ殆ど評価されない。
みな、プロとしての仕事とアウトプットに対してお金をもらっていることを知っている。

こうやって大きな幹が実現されたはずなのに会社の業績が上がらない。この結果も明白。
経営陣が給与カットもしくはクビになる。


日本はどうか。
給与の違いが殆ど無いので、自分自身の結果に対するシリアスさを本当の意味で体感するのが難しい。
そうすると、
自分が出すべき大きな目標=価値に集中できず、
それよりもコミュニティに帰属するための些末な部分に時間を割いてしまう。
その結果、夜遅くまで仕事が続き、つねに脳みそ70%の状態で体力の限界まで仕事をしてしまう。
結果、仕事の結果もつねに70点となってしまうし、組織の力もつねに70%しか発揮できない。
経営側は、スタッフの給与をあまり上げたりしてギクシャクしたくないので、
緩やかにあげられるような評価体系を使いやすいと感じてしまう。
つまり、仮に120点の業績をあげた人間がいても、見返りは少ないということ。
人間の特性として、90%の人間が、「それだったら適当に力を抜きながら仕事をして、職場を楽しく過ごすことにパワーを割こう」と思う。
そしてハイクオリティな人間はもっと評価される環境を求めて外部に去っていく。
こんな循環にはまりがちな気がする。


「信賞必罰」という言葉があるが、
日本では信賞の概念は曖昧であり、必罰の概念は皆無。
これはなぜかといえば、一つには、個々の気持ちに依存するからであり、気持ちを大事にするから。

もう一つはもっと深刻な問題で、
そもそも幹部陣が、部下に対して信賞必罰を厳密に実施できるほどの戦略的な決定、目標の明確化を出来ていないからである。
これも結局は、幹部陣自身に対するGovernanceが皆無に等しいからだと思う。
日本は失敗しても本当の意味での責任は誰も取らない社会主義国。「言うのはタダ」みたいなところがある。

Don't make a lie to your policies.
Stay true to your strategic priorities.

あるカンファレンスにて、別々のCEOがそれぞれの言葉で語っていたものです。
言ったことは、真実であるべきで、経営者は、その為に努力しなければいけないと。
その場の「経営のための詭弁」ではダメだと。

もちろん世界で一番進んでいるかのように言われているアメリカ企業の経営者であっても、
人事制度や評価という問題に完璧なソリューションはなく、常に頭を悩ませている。

自分達も今、理想を持ってやっているし、その理想に少しずつ向かっているが、
まだまだ実が伴っていないところがある。
その理想を発信することが誰にとっても恥ずかしくないものである状況を作り出すのが自分の大きな仕事の一つであり、それに沿ってチームを作り、仕事を評価しなければいけないということを、改めて意識していこうと思う。
僕らは日本チームではなく、グローバルチームなので尚更。


という、
日本人らしいダラダラとした考察で久しぶりのブログを終了。