因果倶時 -5ページ目

事業責任者

自ら考え、具体的なストーリーを描き、着々と実行に移す。少しでも早く実行に移す。
ひたすらデータを見て、データ以外のユーザーの気持ちもイメージし、
ネット上の情報を漁り、細かな改善を四六時中考え、
世の中の全ての情報を自分の事業に関連付けてブレークスルーを起こせないか考える。

トップラインの上下は部下に担当させつつ、
ボトムラインの右肩上がりでの上昇を実現することに常に注視し、自ら尽力している。

目の前の上司や部下に惑わされず、
自分自身の出世欲や名誉欲にも惑わされず、
ユーザーやクライアントと戦っているという本質の意識を常に見失わず、
それに対して提供するべきことを常に考え続け、
少しでも多くのバリューを作り出すことに尽力する。

事業の社会的意義を常に追求し、
それを誰でも理解できる明確な言葉であらわし、
それが具体的にどのように実現できるかについての考えを明確にし、
チームのモーメンタムがずれないようにする。

組織の無理な部分を放置せず、
誰でも楽に展開できるような仕組みを考え、
その分、組織として次にやるべきことにリソースを集中できるように常に図る。

安穏として滞留し始めた部分に対して常にメスをいれ、
人事異動を行い、
多少の無理を押し切ってチーム全体が常に新しいことに取り掛かっているようにする。

全ての数字の出所と原因を把握しており、
リスクの現在量と潜在量を把握しており、
局面に応じてその全体量を調整することで想定以上の被害が発生しないように常に考える。

重要な局面では常に自らイニシアチブを取り、
ありとあらゆる手を使い、
事態を打開する。

そのために常日頃から何が起こりうるかのマイナス局面を想定し、
具体的な備えを怠らない。

事業を離れたところで「人間」「社会」に対する見方、価値感を明確に持っている。
それらを踏まえたうえで事業を語り、運営している。

にも関わらず、モノゴトには多様な側面と見方があり、
自分が思っていることは仮説にすぎず、
「正解」があるわけではないことを実感値として理解している。

一方で、世の中の情報や定説、他人の話をアテにせず、
自分自身の実感値、体感値を貯め込むこと、そこからのアウトプットに全幅の信頼を置く。

事業が軌道にのったらそこに安住せず、
自分は次の事業を起こす。

事業目線、とか

インターネットの世界において、
web2.0以降の潮流として既に明らかになっていることが、
徹底的にサービスにこだわり、ユーザー目線にこだわることが、
事業としても圧倒的な差を生む、
ということだと思う。

あらゆるビジョナリーな人たちが、
超安価に時間と距離の壁を崩壊させる情報流通システムとしてのインターネットに着目し、
素晴らしくオープンでフェアなシステムを構築することに注力し、
それが圧倒的な形で世界中に受け入れられてきた結果、
これは既に明白な事実、ルールとして目の前に突きつけられていることだと自分は思っていますが、
それでも尚、
「サービスにばかりこだわるのだけでなく事業目線も」
「ユーザー目線だけじゃない」
という観点の話をする人もいます。

そういうときに見据えられている、
一見もっともに聞こえる「事業目線」は
どこを向いた話なのか、いまいちピンとこないものが多い。
規模も小さい。

結局、自分の印象では、
サービスにこだわりきれないがためにイマイチサービスが離陸しない人の言い訳」
にしか聞こえません。

もっと言えば、
サービスにこだわりきれないのは、
そもそもそのサービスに対してこだわりがないからじゃないかと思います。

実際、
事業目線が強調される場合、
本来あるべきユーザー目線での話というのが、
完全に置き忘れられているケースがあまりにも多いように思います。


いま、
ネットメディアは、
大量に効率よく情報を伝播するプラットフォームが整備されてきたことで、
圧倒的にユーザーを集める洗練された目的別サービスと、
そうではない中小サービスや、有象無象のひまつぶしコンテンツの差が際立ってきているように思います。

エッジのないつまらないサービスは、
簡単に情報が比較できるので、
最早まったくユーザーを集められない。

エッジといっても何か特別なことをするのではなく、
ひたすら当たり前の欲求に答え続けていくこと。

人は馬鹿ではないので、
気持ちのあるサービスや商品にはやっぱり反応するし、
そうでないものはすぐに拒絶される。

こういうことを、
理論的には理解していても、
実際には重要視しないようでは、
その事業、サービスの将来性は大したことはないと思います。

高尾山は作れても、
エベレストを作るにはそのアプローチでは絶対無理。

フリではなく、
手段でもなく、
真剣に向き合い、魂を込めて提供できるサービスや商品をやらないと、
どんだけもっともらしい「事業目線」を持っていても、
何の役にも立たないし、何の価値も産まない、とても良い時代になってきていると、自分は思う。

ストイックな事業目線とか、たぶん、要らない。
捨ててしまって未来を見たところに本当に目指すべき事業目線があるはず。
そう考えると、インターネットというインフラは機会平等を体現する、
本当にすばらしいインフラだということをつくづく思う。
この世界の可能性をフル活用して新しい価値を提供することに自分ももっと邁進しよう、邁進しなければ、
と改めて思う。残念ながら、まだまだ全然実現出来てないので。

数字を読みきる

今、
事業責任者とは何か?
という議論が社内で行われている。

事業責任者たるもの、
こうあるべきである、
という議論です。


このテーマについてはいろんな人で意見が分かれるところがあり、
それ自体おもしろいのですが、
そもそも論でいうとものすごくシンプルな話があり、
事業責任者であるならば、
事業を運営して利益を出さなければいけない。

ベンチャーであれば、
新規の事業に果敢にチャレンジして会社に物理的に貢献しなければならない。

そのことが、
目線として抜け落ちていてはどうしようもないんじゃないのか?
ということを僕からは前回意見しました。


この、当たり前(?)の原点に立ち返ってみると、
特に海外の事業家達を、
具体的な競争相手として捉えなければいけないということを自分は特に思います。

たとえばSteve Jobsのような人間がいて、
確かにすごい。魅力的だし、事業もプロダクトもすごいし、正直圧倒される思いです。

でも、
それに圧倒されていてはダメで、
やっぱり事業として考えれば一人の起業家であり、
競争相手なわけです。

なんか、
対岸の火事のような感覚で海外で起こっていることを見がちですが、
本気で彼が自分達の事業をつぶしにきたら、
あらゆる戦略・戦術を駆使して、戦って、勝たなければいけない。

そういうことも
もっとリアルに想像していく必要があると自分は思います。


ですが、
事業責任者ではなく、
「マネージャーとはどうあるべきか?」
という観点で議論が進みがちなため、
そうすると、
背中を見せる、信頼を得る、部下の成長を、
ということが議論の主なテーマになっていき、
確かにそれらは重要なんですが、
そもそも論でもっと自分達自身が責任を負うべき最重要なテーマを軽視していてはだめよ、と思います。
自分達は最前線から引退でもしたつもりなのか?と。


で、そういうことを考えていてやはりいくらなんでもこれはダメでしょう、と思うのは、
予算会議とかでPLに数字を入れてこない、
というもの。


事業というのはどこまでいっても最後はバクチであり、勝負であり、ガチガチの戦闘。
決まっていないことや予測できないことが山のようにある。
嫌になるぐらい。

石田三成が徳川家康に挑んだとき、
彼はたかだか十数万石の単なる豊臣家の家臣だったわけですから、ものすごい強烈な思いで家康に挑んだと思います。
しかし彼は彼なりに必死の思いで仲間を集め、関が原で一世一代の大勝負を展開し、家康を追い詰めた。
それでも、最後はあらゆる味方から裏切られ、敗北し、首を切られた。

彼は敗北したし、彼の評判は一般的にはマイナスだと思いますが、こんなすごい勝負が出来る人間はそうそういないと思います。普通は家康に従うか何も出来ずに悶々としてるでしょう。

彼も最後戦闘が始まったときは、何も読めなかったと思います。
でも勝負に出て、負けました。彼なりに読みきった。それが事業責任者ではないかと思う。


話が急に小さくなるのですが、
PLに数字を入れてこないというのは、
自分から言わせればそれは単に責任回避に過ぎない。
殆どの場合なぜ数字が入っていないかといえば、
「データが出てきていないから」「メンバーから数字が出てきていないから」
が理由になります。

おいおい!っと自分で思わないとダメです。
データがなくたって大体予測できてるでしょう?と。
予測できてなくても、最悪自分の感覚でここだ!、と思ったところで数字を張る。
具体的なデータがなくても周辺数字、そのトレンドぐらいは見えているはず。
それを元に精一杯の仮説を駆使して、数字を自分で計算して、はじき出す。
それが責任者たる人間が最低限できるべきことであり、腹をくくるべきところであり、
それが出来なければ永遠に事業運営が具体的なデータなしではできないことになります。
わからないことを、わかりませんと言ってるだけでは駄目。
であればその責任者は要らないので、直接その部下の人たちがPLを作ればいいことになる。


事業責任者、の人たち、
そして、
自分でも事業をやってみたい人たち、
は、
そういう、
精神的な意味ではなく、
リアルな間接要素を元に事業の数字としての「腹をククル」「読みきる」、
という部分も必要だと思ったので、
久しぶりにブログっときます。

This is a go.

This is a go.


中国サービスの立ち上げから4ヶ月強。

準備期間から数えれば8ヶ月強。

今日は、この何の感情もない4ワードに、気持ちが踊りました。


This is a go!

補助輪なし自転車を、1日で漕げるように子供に教える方法

今日は朝から天気も良いということで、
近くの交通公園へ家族で散歩。

公園なら遊んでいる間自分もランニングできるし、
ということで一石二鳥。


で、
4歳の娘が非常に楽しみにしていた補助輪なし自転車の練習をさせました。


最初は自分が後ろの荷台をもってバランスとらせて練習したのですが、
全然こげないし、バランスも取れないし、
10分ぐらい、
悪戦苦闘。


だんだんイライラしてきて、
「前向く!」とか
「ペダルを見ない!」とか
ダメだと思いながらも怒り口調に。。。


そしたら嫁さんが、
「そうやってやるんじゃなくて、まずは足で地面をキックして進むのをやらせるといいよ
 そうすると自分でバランスを取るのを覚えるから」
「バランスの取り方も分からないのにペダル漕げっていっても無理だよ」

と言うので、
へー、それはたしかにそうかも!

と思って、
ひたすら何周も足キックで進む練習をさせました。
こっちはただ見てるだけお。


息子のときと違って、
女の子は素直なので、
地道に何周も足キックしていて、
そうすると、
みるみるうちに上達して、
足をずっと地面につけていなくても、バランスをとりながらスーッと自転車を進ませることが出来るようになってきました。

褒めてあげると尚更うれしそうに、
どんどん何周もします。


そこで自分は公園を20分ぐらいランニングして戻ってきたら、
もうかなり足こぎに安定感があったので、
「もう自転車漕いでみてもいいかもね?」
と言うと、
娘は積極的で無鉄砲なので、
自分でペダルに足を置いて漕ごうとし始めました。

そこで敢えて放っておいたら・・・
いきなり1回、2回と漕げたのでビックリ。


「すごいねーすごいねー」と褒めてあげると、尚更嬉しそうにニンマリ。


もう自分でも上達しているのが分かったので、
勝手に一生懸命練習しだして、
親はただ見ているだけでしたが、
15分ぐらいしたら、
ヨロヨロしてはいましたが、
もう一人でどんどん漕げる状態に。

奥の小さいピンクのがそれ。
因果倶時-スイカ自転車


やる気ってのはすごいなーと思いましたが、
同時に、
嫁さんが教えてくれた練習法が驚異的に効果的だったということです。


息子のときは、漕げるようになるまで2ヶ月ぐらいかかってたと思う。


何かをやるとき、
方法論1つで大きく展開が変わるという好事例の1つだと思いました。
この、小さなことから少しずつ達成感を持たせる、
ということを現実の仕事にも適用したい・・・これがなかなか難しいのですが。


なんてことを考えながらふと気付いたのですが、
練習場の中には何人もお父さん達がいたのですが、
みんな、
自転車の荷台をつかんで漕がせる、という僕が最初試みたやり方をやっていて、
みんな、
子供に怒鳴りまくっていました。
「前見ろ!」「今こぐんだよ!」「後ろ向くな!」

そんなお父さん達の子供達の顔を見たら、
みんな、
自転車乗ることでさえ怖いのに、
横で怒鳴っているお父さんがさらに怖くて半べそ。


かわいそうに~~~www


って、
ついさっきまで、自分もこうなる可能性があったな、
と思って、
いたく反省致しました。(;^_^A

ブログ

最近、ブログを書く頻度が極端に少なくなっている。

これはなぜかというと、
Twitterがあるから、というのもある。

だが、
もっと根本的なところを言えば、
Twitterが始まる前からブログを書く頻度は大幅に減っているのだ。

Twitterは、
ただ単にそのブログ離れを加速させてしまっているに過ぎない。
予兆はあったはず。


ブログはブログで、
どういうシーン、どういうケースで、
ブログというやり方が優位性を持っているのか、ということを考えなければいけないころだ。


昔、テレビが出てきたころ、
テレビ会社はみな、映画ばかり流していたらしい。
そうするとみな、テレビを見なければいけない理由がわからず、映画館に行っていたらしい。
テレビが必要になったのは、テレビが独自の番組というものを作り始めてからだという。


考えてみれば、
ブログ初期に「トラックバック」なんていうのが流行っていたのが懐かしい。
いまや全く聞かない。技術的にそういうことが出来るというだけで、意味不明だったからだと思う。


サービスを展開するときに重要なのは、
そのサービスを利用する人の心理面にフォーカスすること。

既に人間と人間の間に厳然として存在する思考・嗜好・コミュニケーションを形にしたものでなければ、
ちょっとぐらい面白そうに見えても、
殆どどんなサービスも受け入れられない。


例えば、SNSとTwitterとブログとメルマガは、それにアプローチする人の心理状態が全く違うサービスであり、
ブログを利用するときにはある程度考えや書く目的を整理した状態でブロガーはブログに臨む。

Twitterは、もっと気楽で、考えがまとまる前に思いつきをガンガン書き込む。

メルマガの場合は、気持ちや考えではなく、情報を整理して発信することを一番意識したツール。

SNSは情報発信ではなく、単なる遊び場であり、情報コレクションの場所だ。
ただし情報コレクション場所としてのSNSは必然的にコンテンツが膨張する運命にあり、
結果的に情報コレクション場所という側面も持ったというだけのよりシンプルなツールであるTwitterに、
その場を奪われ始めている。
なので、自分はFacebookの将来は、
あれが何を提供しているサービスなのかが不透明なので、
結構やばいと思っている。


この辺の利用者の心理状態にフォーカスすれば、
各サービスが生き残っていく道は必然的に見つかるものだと思う。


いままでいろんなサービスが出てきて成功したり失敗しているのを見ていると、
基本的な心理状態の違うものを組み合わせるのはかなり厳しい、
ということだけは言えていると思う。

ペンティアム粘菌

うちの会社では毎朝だれかが「気になるトピック」を発表しているのですが、
今日は、
エンジニアのノリさんが面白い話を紹介してくれました。

その内容は、
「粘菌」という菌の仲間が、非常に効率のよい最適化されたネットワークを短期間に構築できる、
という話でした。

粘菌:ネットワーク構築の性質、物流経路の設計に応用可能


粘菌には殆ど知能がないはずですが、
ネットワークの伸ばし方が何万通りもある中で、
なぜか効率の良いネットワークを作ってしまう。

その理由として、
ファジーな状況の中でとりあえず選択や決定を繰り返すことで、
最終的に高速で最適形に落ち着くことが出来る、
という話をノリさんはあげていました。


非常に面白いと思いました。


実際このような例はあらゆるところに存在していて、
たとえばビジネスの立上げや、
部署の異動や、転職、
このブログの使い方、みたいなところにいたるまで、
何万通りも選択可能な道があってその中でどれかを選ばなければいけないけれどどれを選べば最適なのか分からない、というシーンにおいて、
実際やってみることで経験を得て、何がどうなのかが見えてくる。

最初はわけがわからないけれど、
まずは見える範囲にどんどん手を伸ばしてみて、
小さな取捨選択と改善を繰り返すことでいつの間にか大きな何かが出来てくる。

そういうシーンは沢山あるわけですが、
それとこの粘菌の話がどんぴしゃに重なりました。


とりあえず、
無駄に思えるかもしれないことでも、
目指すべきゴールさえはっきりしているのであれば、
それに向かって、少しでも使えそうに見るものに対するトライをどんどん繰り返す。

それは最初はもどかしいものであっても、
高回転でそれを繰り返すことが、
ゴールに向かう最短距離につながる、ということなのかなと。

そこで立ち止まって考えていても何も始まらない。
天才のひらめきを待つよりも、まず愚直に経験してみる。そこからスタートする。
小さなことでも即決してやる、ということ。



自分も、もっともっと粘菌になろうと思います。
スーパー高周波数なペンティアム粘菌に。

【事件記録】小学1年生虐待死亡:2010.1.24

児童虐待の末、死亡、というような、痛ましい事件が相次いでいる。
きっと表には出てこないけれど苦しんでいる子供たちは、相当たくさんいるのだろうと思う。
自分に何ができるかはわからないけれど、
まずは気づいた事件をブログに記録していきたいと思います。

小1虐待死:小学校、行政側に注意喚起せず 東京・江戸川

 「パパにぶたれた。ママは見ていて何も言わない」。昨年9月、左ほおと両足のももにあざがあるのに気付いた歯科医に、海渡君は打ち明けた。いつもは元気な海渡君がしゅんとしていたという。(記事より)


09年2月 健二、千草両容疑者が結婚

  4月 小学校入学を機に、千草容疑者の連れ子の海渡君が同居を始める

9月14日 あざに気付いた歯科医が区子ども家庭支援センターに通報

  17日 校長らがアパートを訪問、健二容疑者が虐待を認める

  10月 学校を11日間欠席

  12月 担任が3回アパートを訪問したが海渡君には会えず。12月は6日間欠席

10年1月23日 海渡君が両親から暴行を受け意識不明になり病院搬送。1月は8日間欠席

  24日 海渡君が死亡。小岩署が両容疑者を傷害容疑で逮捕



再婚からわずか1年で子供が死亡する事態に。

彼にとって悪夢のような1年だったろう。

Google Buzz騒ぎに思う、ビジョンの大切さ

先日Google Buzzがリリースされ、ひとしきり話題に。

賛否両論うずまいていますが、
主な論点は、
『果たしてGoogle BuzzはTwitterに勝てるのか?』
的なものだと思います。

自分は、
このサービスが話題になったときから真っ先に思ったのが、
『なんでGoogleが彼らのビジョンと一見関係のなさそうなサービスをリリースしたのか?』
という点でした。

Twitterの後追いサービスのようなものを仮にリリースしたのだとすれば、
Google帝国もついに退潮の兆しか・・・?とも思いましたが、
いままでの流れからすれば、
組織カルチャーとして、
そんな安易なことは絶対にやらないはず。
グーグルのビジョナリーたちの試験をかいくぐって外に生まれ出てきたこのサービスには、
グーグルならではの何か意味があるはず。

というわけで、どういうことなのか非常に興味をもっていましたが、
この説明を読んで自分なりに合点がいきました。
Google makes mobile more social with Google Buzz


Googleは検索というワールドにいる。
彼らのビジョンは、"make everything searchable - 全てのものを検索可能に"。

上記のページから読み取れるのは、
彼らはBuzzをつかってリアル世界に既にあること、そしてこれからおこることを、
すべて場所・時間・人情報と一緒にリアルタイムに検索DB化していくためのプラットフォームを創ろうとしている。
そういう風に自分は感じました。

それはある意味、
make everything searchable から、make the future searchable というような、大きな進化への一歩という気もします。


結論として、
Buzzというサービス自体がどこまで流行るかどうかは分かりませんが、
彼らがこのサービスをなんとなくやってみて、なんとなく運営する、ということはないだろうとは、なんとなく想像できます。
成功・失敗に関わらず、彼らが目指す究極の検索サービスの実現に向けた何かのFeedbackを彼らは得ると思う。

いくらなんでも、あのグーグルが、あそこがうまく行ってるからうちもソーシャルやってみたい!
みたいなバカな会社じゃないだろう。



このことから改めて自分が思ったのは、
やっぱり、
意味のあるビジョンを持つことが極めて大切であるということ。

この、
情報があふれている時代、
そして何よりも、
別に一生懸命働かなくても一定水準の生活が可能である時代、
つまり怠けていても実は全然かまわない豊かな時代に、
ビジョンを持たなければ何の進化もできないこと、
を改めて感じます。

ビジョンとは、
社会に対してどういうValueを発揮したいのか、ということであり、
古く言えば、大義名分のこと。

これがあるから人間は改めて自分の気力を奮い、
その実現に向けて一目散に努力し、
社会の中で自分が価値を発揮できていることに満足を感じる。

逆にビジョンがなければあふれる情報に惑わされ、
中途半端に右往左往するかぼんやりしているしかない。

自分の内面を見つめ、社会の大きなうねりやニーズを考え、
そこからビジョンを設定し、
それに対して必要なものを収集していく、
というアプローチでなければ、
やるべきことは常に曖昧で、関心外のことにならざるを得ない。



自分は現在、株式会社リサーチパネルエイジアというチームの中で、
Empower People、Empower Asia
というビジョンを掲げてやっている。

うちのメンバーには、
このビジョンが持つ意味、なぜそういうビジョンに達したのかということを、
必ず最初に説明し、共感してもらっている。
できるできないや個人のスキルは関係ない。
まずこのビジョンに共感できて初めて一緒に共通のゴールに向かって仕事ができると思っている。
なぜならビジョンはゴールそのものだから。
しかも永遠に「達成した」ということにはならない厄介なゴールなのですが。

全ての事業、全ての行動が、
このビジョンの達成に向けた着実な進化に寄与するものとして設定され、
それに向けた大きな流れを皆が実感と満足をもって感じられるような組織にするべく、
微力ながら自分の精一杯の力で頑張りたいと思う。


久しぶりにブログを書いたら、
またダラダラと長くなってしまった。

許容して変化する文化

韓国に出張にいって今回新たに発見したことが、
韓国では既に、
若い人の間では漢字が通用しない、ということ。

学校でも
もう漢字を殆ど教えないそうです。
だから意味も読み方も知らない場合が多いです。

韓国の方の名刺をみても、
古い人の場合はたいがいハングル表記と漢字表記が併記されていますが、
若い人の名刺をみると、
もうハングルしかない場合が多い。

そういう目であらためてみてみると、
たしかに電車の車内広告などに使われているのも、
ハングルばかりで漢字はほぼ見当たりませんでした。

中国の影響をうけて漢字文化なのは日本と韓国、
そういう認識でしたが、
実はもう漢民族以外で漢字を使っているのは日本だけ、ということです。

日本の場合はひらがなカタカナも、漢字から発祥していると言われているし、
漢字とひらがな、カタカナ、さらにはアルファベットにいたるまで、
あらゆる文字を自国文化の中の一つのツールとして使いこなしてしまっている。
漢字そのものの美しさも、既に日本人の美意識の中に織り込まれている。

韓国が漢字を捨てつつあるということは、
つまり韓国では漢字はあくまでも外来の一時しのぎ的なやむを得ないツールであり続けてきたのであって、
ハングルというものだけで、十分に韓国語や韓国文化そのものを表現できる、ということなんだと思います。

中華圏は圧倒的に中国が先進国だった時代、
そして今も広がる華僑のネットワークを通じてアジア全域に広がっているはずですが、
漢字を受け入れて今も使い続けているのは日本だけ。

実は日本はこういう現象が多い。

典型的なのが食事やお祭り。

アジアのどこの国にいっても思うのが、
その国の人は、
その国の食事しか基本的には食べない。

中国人は毎日中華。
韓国人は毎日韓国料理。
ベトナム人もタイ人もみな、自分の国の料理を毎日3食べています。

どういうわけか日本人だけは、
アジアにとどまらず世界中のあらゆる料理を毎日バラエティー豊かに食卓に並べ、外食する。

もはや、
パンもケーキもラーメンもチャーハンも餃子もスパゲッティーもピザもキムチも冷麺もカレーもフォーもハンバーガーも、既にすべて日本食の一部。
日本独自の味に進化して本場本国よりもおいしくなって日本人の生活の中に根付き、文化になってしまっている。


日本人は本当に何かを取り入れるのがうまいです。
これだけ外国語の下手な島国なのに、
そういう、海外の文化を取り入れることに殆ど抵抗感がなく、
むしろ積極的でありながら自分たちになじむ形で取り込んでしまう土壌であるということは、
実はすごいことなのかも、と思います。

古代中国から黒船にいたるまで、
常に海外から先進的なものが渡来する、
ということを先祖代々体験してきた日本人の生活の知恵なのかもしれないですね。


海外にいくと、
日本は小国ですし、資源もなく、
人一人一人の個人的なパワーや魅力でも、
海外のどの国の人よりもトップレベルで見たときに劣る気がしますが、
そんな国が世界の中で一定の地位を持っているというのも、
そういうところに理由があるのかなという気がしました。


というわけで、
今後も海外での先端事例にたいしては、
臆面もなく貪欲に日本人は学んでいきましょう~~!という話でした。