因果倶時 -7ページ目

西洋文化の優位性

今日、久しぶりに銀座の街を歩いていて、相変わらず華やかな街だと思うと同時に、
この銀座の華やかさを演出しているのが基本的には西洋文化だということ、
そして、
個別に異論はあるにしても、
基本的には西洋文化が地球上の全ての価値観を圧倒しているという事実を、
改めて感じました。

物量だけでなく、
学問、音楽、スポーツ、結婚、食。あらゆる「生」にかかわるテーマで西洋が世界を席捲してしまっている。

唯一、「死」にかかわる部分だけは、個々の文化が脈々と息づいている。

自宅に帰ってから世界の文化というものを改めて考えていたら、
結局のところ、全ての文化は古代文明にそのルーツがある。

アジア圏であればそれは中国文明。
日本、韓国、東南アジア、中央アジア、すべて中国の影響を受け、
中国から発生した死生観、政治思想、音楽・学問・食のカルチャーから派生している。

一方、西洋文化は何かといえば、
それはギリシャ・ローマ文明になる。

ギリシャで発生し、ローマで発展した政治思想、軍事技術、教育体系などが全てのベースとなり、
各国がそれを使って富国強兵を図った。

ヨーロッパは面積も小さく、小規模な民族がひしめきあっていたため、
当初は豊富な土地を使って圧倒的な人口を作り出したアジアや中近東の民族が高い技術と文化を持ち、
ヨーロッパはそれを習うほうにまわった。
当初、ギリシャやローマが発展したのは気候に恵まれていたので文化が遅れている中で比較的国が発展しやすい土壌があったのと、アジア・中近東の文明を受け入れる窓口が地中海だったからだと思う。

ローマ人は海を通じて取り入れた技術と資源をつかってヨーロッパを征服し、
小規模なローマ民族が
より大きな人口を持つヨーロッパ内の諸民族を効果的に統治するための優秀な政治の仕組みを作りあげた。

西洋文化は物量主義と言われているが、
当初物量に依存したのはむしろアジアの大国だったに違いない。
当時の戦争の記録を読んでも、ギリシャやローマの軍隊はせいぜい数万人。アジアの軍隊は常に数十万という数字が出てくる。
きっと西洋文化は、
アジアの驚異的な人的物量主義に対抗するために、
物質的な物量主義を存亡をかけて推進せざるを得ない状況に追い込まれていたんだろう。

そうやって優秀な統治機構をつかって富国強兵をはかったローマは、
当時の貿易の舞台だった地中海を巡って大国との戦争を繰り広げたが、
そこで覇権を握ったころには徐々に貿易の舞台は大西洋へから新大陸へと移っていった。

収益源を失ったローマは徐々に力を失い、
地理的にも大西洋に出て行くのが不可能なので二度と軍事的に浮上することはなかったが、
引き続きローマが残した統治機構を使って激しく競争したヨーロッパの大国が軍事技術を磨きぬく中で、
王朝の肝いりで数学・物理を中心とした高度な学問と金属加工技術を発展させたことが、
様々な分野への大きな応用展開を産み、
その副作用としてきらびやかな金属装飾文化と、
あの素晴らしい音楽楽器とそれによる音楽そのものの世界を作り上げたのだと思う。

こう考えてみると、
西洋の全ては、スポーツも含めて全て軍事技術を基礎にしているし、
その文明が「生」を謳歌しようとしているように見えるのも、
戦争に明け暮れたヨーロッパの国々の人生観そのものをあらわしているのだと思う。

ただ結果として、
あまり戦争をせずにじーっと日々を暮らす中で内面を追いかけて「死」について考え続けていたほかの国と、
いつ死ぬかわからないから生きているうちにいかに楽しく豊かな「生」を実行するかを追求した国々の文化では、
それはこの世の中で圧倒的に後者に魅力が出ても仕方がないですね。

というところまで、
うまく結論にたどり着いたところで終わり。

逸脱へのスプリングボード

「人」はビジネスにおいて欠かせない要素であり、重要なパーツだ。


だが、


「人」は目的ではなく手段であり、
ビジネスにおいては最終的にはまっすぐに目的を達成しなければならない。


逆にいうと、
ビジネスとしての目的があるからこそ、
必要な「人」が定義される。

そして、
必要とされるからこそ、
目的を達成するからこそ、
その人は初めて本当の楽しさを得ることができる。



目的を理解してもいないのに何かが達成されたとしても、
それは出来事にすぎず、
何の満足も得られないものだ。



つまり、
成果だと胸を張って言える目的を定義することなくして、どんな仕事もあり得ない。



また、もっと言えば、
一本筋の通った目的を明確にすることなくして、
サービスの提供先にその意図を理解してもらうこともできず、
偶然や結果論以外の部分で、
そもそも何かの成果が出ることもあり得ない。



気持ちのよいサービスというのは、
サービスの受け手側に、
提供者からの一方的な思い込みではない深い愛情や考慮に基づいた意図が、
ビシビシと伝わってくるようなものだと思う。



最近いつも引用しているが、
『疾走する精神』において、茂木健一郎さんがこう言っていた。


『(前略)制約があるからこそ、自由である。
縛り付けるものがなければ、逸脱へのスプリングボードも得られない』



狙って飛びぬけた成果を出そうとするならば、
事業責任者はリスクをとって自由に対する制約(=目的)をかけることが役割だと思います。

ライオン

今日朝、
おきて朝ごはんを食べているときに突然、

「この地球上のどこかで同じ瞬間に、
 ライオンやキリンが現実に生きていて、
 地球の上を歩いたり走ったり食べたり食べられたりしてるんだな」

ということをリアルに思いました。


なんかそれって、
すごい。


この東京のど真ん中では、
まるでそういった生態系と切り離されて人間だけで生きているような錯覚に陥っているけれど、
そんなものとは全く関係なく、
沢山の動物がそれぞれの命を静かに燃やしているのかと思うと、
突然感動した・・・見たい、アフリカ。

理想を良い方向へ

僕は、
自分はものすごく頑固で、
それが故に変化に弱い人間だと思っています。
考えを曲げないし、
無闇にあるべき姿を追っている部分があります。

これは、
正直、
世の中で何かをやっていく上で、
あまり優位性になる部分ではないと思います。

ただ、
そんな自分でも、
今よりずっと頑なにあるべき理想論を持ち、
直線的に追っていた時代があった。

そのころは、
自分がこうだと思っている以外の部分の事象に遭遇すると、
ただ単純にストップするだけでなく、
無駄に目くじらを立てたり憤慨したりしていました。

それは、
結局、ネイチャーなので、
今でも実際、そんなに変わらないかもしれません(;^_^A

が、とはいえ、
結局、結果を出すために何が良いのか、により重点を置く思考に、
大きく以前よりシフトしているのは確かです。

結果を出すために今やるべきこと、
ということを自分の主張を見直すと、
より大きなものが見えてくることは頻繁にあります。

それは、
理想を捨てるということではなく、
実はもっと別の部分にあるはずの大きな理想像ではなく、
枝葉末節の部分に理想の軸を置いていたことに気づく、ということに近いです。

とにかく、
理想のない人は論外だと僕は思いますが、
一方で、
中途半端な理想、中途半端なあるべき論は、
その人にとって思考を極めるという中での重要なステップではあっても、
大きな観点では不要どころか自らを制約してしまいかねないものにもなるので、
そこは、本当に注意が必要ですね。
自分にとっての理想というものを、うまい方向に向けていく必要があります。

別に、
自分に偉そうなゴールが今見えているわけではないし、
いつだって右往左往しているのですが(・・;)

単純な事実

先日関西にもどって、
いつものことだけど、
「関西遅れてるなー、ますます東京との差が広がってきたなー」
と感じていたんですが、
実際に関西にいる人たちと話をしていると、
当のそこにいる人たちは、
驚くほどに大してそうも感じていない。

正直、
近くにあるのが、
北陸や四国や中国地方だから、
まだまだ有力な盟主気取りでいるんじゃないかという気がしました。

たとえば、
自分もそうだけど、
東京にずっといると、
東京があたかも世界の中心のように思えてくるが、
上海なんかに少し足を伸ばせば、
今そこが世界の中心であり、
相対的に日本がどんどんと後退していて危機的な状況に陥りつつあるのが如実にわかる。

つまり、
どこにいようと何をしていようと、
何かを一生懸命目指していく中で、
ちゃんと周りとの距離感を意識し、実感するということをしないと、
いつでも簡単に人はゆで蛙になってしまう。

関西にしばらくいないから、それによって関西の現状に気づくのと同じで、
ゆで蛙にならないためには、
自分の状態を客観的に捉えなおすために、
少し距離を置いて、極端な話、しばらく何もせずにただじっと眺めてみたり、
まったく別のことをすることも大事だ。
そういうことを繰り返さないとなかなか難しい。

これをチームに置き換えてみると、
リーダーの仕事はまさにこの部分。

リーダーはなぜ全体が見えるかといえば、
それは現場の仕事をせずに俯瞰するのが仕事だからに他ならない。

幹部が、
現場と同じ目線でその場その場で暗礁を回避するための舵を回すことの大変さに目を奪われていては、
いくらそのチームの力量のすばらしさを盛り上げたところで、
どんどん袋小路に入り込んでしまってその先に避けようのない巨大な氷山が浮かんでいることに誰も気づけない。
氷山が浮かんでいるという単純で圧倒的な事実に対して回答を用意するのが幹部の仕事。

えてして、
外から見るとものすごく単純に見えていて、
どう考えても合理性のないことが、
内部的にはえらく大変なものや価値がありそうなこととして取り扱われていたりするのも、
殆どはこの辺の話なんじゃないかと思う。

武田信玄が一人一人の騎馬兵を鬼のように訓練して戦国最強の強兵にていったが、
織田信長はそんなことをせずに弱兵を金で雇い、無数の鉄砲をもたせてしまった。
ある程度領土が安定したら一気に京都に向かって天下の実権を押さえてしまった。

あとから見れば当然のように思えることも、
武田信玄から見ればまるで想像もしなかったことに違いない。

しかし武田信玄は戦国時代の甲斐の山奥。とれる情報量にもおのずと限界があったと思う。

この情報化社会、
武田信玄にならないようにしなければと思います。

メモ:それがどのような人生であれ

それがどのような人生であれ、
もし、そのような境遇に置かれたら、
私はその運命を背負って生きることを、
きっと心から楽しむことだろう。
苦しいならばそれなりに、
楽しいならばなおさらに、
その人生の一瞬一瞬を、慈しみ、愛するだろう。

by 茂木健一郎 from 『疾走する精神』


それぞれがその人だけのものである
自分自身の人生を
楽しむこと。



感動したので。


チームスピリットに関するエピソード

昨日は合宿があり、
会社理念について考えるというテーマで参加してきた。

その後、
恒例?の飲み会があったが、
自分は仕事をしていたらねむくなってしまったので寝てしまいました・・・
遅くまで語らっていたかた、お疲れ様です。

自分は早くに退散した格好となってしまいましたが、
ひとつには、
自分の中では既に結論がうまれていたし、
それは昼の議論の中で十分アウトプットできたというのがあったので、
早くに退散してしまったというのがあります。

で、
別にそういう言い訳をしたいわけではなく、
今日ふと、
会社に戻る車中で合宿について振り返っていたら、
「ところでこういったスピリットについて考える合宿みたいなものが海外にあるだろうか?」
という疑問にぶち当たりました。

多分、
リッツカールトンとかは、それに近いものがある。

ですが、
殆どの会社にはそういうものは無いのではないかいうのが僕の想像。

じゃあとはいえ、
そういうものがないからといって、
海外、というか、ベンチャーの本場であるアメリカのベンチャーにそういうスピリットが無いかといえば、
むしろそれはムンムンにある。

ただ日ごろからそれを意識するようなことは殆どない。
勝手にそういうスピリットがある人間が集まっているからかもしれないし、
子供のころからそういうドリーム、チャレンジ精神、フェア精神、チームプレー、プロフェッショナリズム、といった教育を叩き込まれるからかもしれない。

つまり、
ベンチャーに集まる仲間、
ベンチャーでなくてもベンチャースピリットをもった組織に集まる仲間というのは、
それが大企業であっても、
基本的なスピリットを持たずに仕事をするということがあり得ないから議論する必要もない、
ということのような気もします。

こういったことは、
その場に行ってみないとなかなか実感値が分からないのですが、
ひとつ、
チームスピリット、団結力というものについて僕が思い出した非常に印象深い出来事があります。


僕が一時期働いたアメリカのスタートアップでは、
アメリカ人CEOの元、
合宿はなかったですがよくレクリエーションは行っていました。

ある冬に、
全員でスキーに行き、
その後、
スキー場の下のバーにみんなで立ち寄りました。

そのとき、少し遅れて、メンバーがふらりと入ってきたのですが、
彼は既に飲んでいて、手にビール瓶を持ったまま店に入ってこようとして、店の主人から、
「持ち込みはやめてくれ!」
というようなことを言われました。
彼のビンには既に殆どビールは残っていなかったし、彼はまた注文するからいいじゃないか、というようなことを言ったのですが、店の主人は他の客の手前もあるので、頑なに入店を拒み、最終的にはケンカになって、彼は暴言を吐いて店を飛び出していきました。

既にその場にいた我々他のメンバーは、
そのやり取りを半ば呆れながら見ていましたが(原則的には持ち込みをしようとした彼が素直にあきらめるべき)、
その後、一瞬の間をおいてみなの顔を少し微笑みながら見回した当時のCEOは、
「さて、仲間を追い出すような店にわれわれはこのまま座っている必要があるだろうか、諸君?」
と問いかけました。

そこにいたメンバーはみな、
「NO!」

というようなことを反射的に叫び、
既にもう注文もしていたのですが、
全員で机をたたいてすぐにその店を出て行きました。


普段まったくチームスピリットについて語るようなことのないチームだし、
むしろ自分の仕事だけを黙々とやり、ドライにさくっと帰宅しているような印象すらあったのに、
そういう場面に遭遇したときに、
CEOが瞬時にそういう決断を行い、
そしてチームのメンバー全員がその決断に即座に賛同して、
仲間の側に立ったこと。

そういうことに、
当時の自分は大きな感動をしました。


合宿でのテーマと、
直接的にかかわるものではないですが、
チーム、組織、というものに関するひとつの理想形がそこに凝縮されているのではないかと思ったので、
紹介まで。

感覚波を直接伝える

最近、
海外の人たちとやり取りをするようになり、
まさにリアルタイムでSkypeなどを使いながらプロジェクトを進めるようになっている。

これは非常に便利で、
しかも無料ということで、
ちょっと昔には考えられないような技術進歩の恩恵をこうむっている。

ただ、
そこで一見密な会話を重ねれば重ねるほどに、
むしろお互いの波長のズレのようなものが強く炙りだされていく、
という面白い現象がおきている。


自分が昔商社にいたときは、
頻繁に電話とメールをつかってコミュニケーションを図っていたが、
こういうズレというのは、
そのときには殆ど感じなかったようなもの。


今、
茂木健一郎さんの「疾走する精神」を読んでいて、少しその考え方にはまっているのですが、
面白いと思った話の中に、
均質化、グローバライゼーションが進めば進むほどに、
むしろ世界は世界の圧倒的・絶対的な多様性に気づかされていく、
というようなくだりがありました。


まさにそれに近い。


そういう多様性の中で何が重要になるかといえば、
それは感情の波のようなもの、というような話でした。


自分もまさにそれを思います。


お互いが国境を超えて、
テキストだけであたかもリアルタイムにそこにいるかのようなコネクションを維持できるようになった今、
目的もないまま無駄に会う必要はなくなりつつありますが、
ある一定の頻度ではむしろちゃんと会って、
直接感情波をやりとりしながらコミュニケーションをし、
ズレそうになっている部分を無意識に修正しあう、補正しあう、ということをしなければ、
逆にお互いに絶対的に理解し合えない部分への意識ばかりがクローズアップされていき、
コミュニケーションが破綻しかねない。


そのように思います。


特に一番最初のスタートラインはそう。
相当密接にコミュニケーションをしなければいけない。
少し無駄じゃないかと思うくらい念入りに会話をしたほうがよい。


ましてそれが、
外国、外人であればなお更。時差があるだけでも、意識は違ってくる。
こちらにしてみればもう散々仕事をして煮詰まった後だとしても、
向こうはまだ起きたばかりだったりする。


なんか、
そういう当たり前のことを、
最近になってまた気づかされています。

2万人の壁

最近海外サイトも含めていろいろ見たり調べたりしている中で思ったのが、
「2万人の壁」。


いわゆるキャズム的なものだと思いますが、
ネットサービスの場合、
大概どのようなサービスをやっても、
利用者2万人くらいまではそこそこ短期間で成長すると思う。


しかし、
そこから先は明確な戦略、動機付け、実用性、発展性、競合優位性などが無いと、
なかなか増えていかない。
そこで、
元々どういう戦略・位置づけのサービスとしてやっていたかという議論の深堀りの程度・考え方の優劣の差が出てくるように思います。


何故かというと、
それがあるサービスの場合は、ある程度スピードがなくても、
確実・着実にひとつの軸に沿ったサービスを充実させていくことが出来、
その結果、徐々に徐々に、他社との格差を広げていけることが出来ます。


一方、
それが無いサービスの場合は、
どんだけサービスをリリースしたところで、
一貫性が無いので全体としてひとつのまとまった効果が発揮できない。
結果的に、ウサギとカメのように、地味であっても着実にひとつの方向に進んでいるカメにどんどん負けていきます。


これは、
国内国外問わず、
同じだと思う。


というわけで、
「2万人の壁」
の話でした。

神戸空港問題:いよいよ財政が破綻?-選挙にいこう

神戸市長選で、
新人候補の樫野さんが惜しくも敗北した直後、
神戸市から空港の借金の返済先送り計画が発表された。
樫野さんブログエントリー

今回の市長選には期待していたのですごく残念、
ということもあり、改めて地元の財政状況を少し調べてみた。

来年度返済期限の650億のうち、395億の返済を20年後に先送りするという。
返済する255億についても、他の造成事業の返済用に貯めていた資金をあてて返済するとの話。

空港建設のために1985億を借り入れたのに、
あてにしていた土地売却資金の4%、45億しか売れていない。
ということは土地が売れない限りは残り1940億の返済のあてはないということ。

神戸市は政令都市なのでかなりの税収があるのかと思いきや、
市税の収入規模が3000億ぐらしかない。なのに全会計の予算規模は1.8兆ある。

市債の残高は、一般会計だけを見ると、3年前ぐらいの1.8兆から1兆円近くまで下がってきているが、
特別会計など全会計ベースでは引き続き2.5兆円ぐらいある。長期市債の金利は2.38%。
神戸市債残高

ちなみに他の政令指定都市と比較してみると、
 ・横浜市 予算規模3.3兆 市税収入7200億 20年市債金利2.1% 市債残高4.5兆 人口157万人
 ・大阪市 予算規模3.8兆 市税収入6000億 20年市債金利2.5% 市債残高3.3兆 人口266万人
 ・名古屋市 予算規模2.7兆 市税収入5000億 20年市債金利2.26% 市債残高3.2兆 人口225万人
 ・神戸市 予算規模1.8兆 市税収入3000億 20年市債金利2.38% 市債残高2.5兆 人口153万人
 ・福岡市 予算規模1.9兆 市税収入2700億 20年市債金利2.14% 市債残高2.5兆 人口145万人
 ・京都市 予算規模1.6兆 市税収入2600億 20年市債金利2.38% 市債残高1.9兆 人口146万人
変な横並び感覚があるんじゃないかと思うぐらいどこも似たり寄ったりで良くない。
国だけでなく日本中が借金漬けになっているのがわかる。
対GDP比の国別債務残高というものがありました。
GDP比 債務残高の国際比較
とにかく借金をして金をばら撒くことで何とか国の成長を維持しようとしてきたことがなんとなく分ります。

一つ思うのはここのところの低金利のために長期市債の金利が低くて助かっているけれど、
金利が上がると今後これらの自治体はどうするんだろう、ということ。
借り換えが厳しくなるから本気で返済しないと破綻しそう。

神戸市の経常収支比率は99%近くとなっており、予算の自由は殆どない。
実質公債費比率も17.5%となっているが、実質は18%を超えてすでに国の管理下状態。
神戸市財政一覧(PDF)
財政用語

神戸の特徴としては地方交付税への依存度が異常に高い。
プライマリーバランスの黒字化は借金残高の多さからくる返済額の多さからくるものであまり意味はなさそう。
神戸市:財政力指数と地方交付税収入額

ここまで来ると、
例え事実を認識していたとしても、
自分のミスを認めたくないがため、
もしくはミスを補うために更に頑なに過去の総花的な政策を重ねる、
ということしか今の政治家には出来ないはず。

役人は上から依頼されない限り疑問に思ったことを自分で調査して何かの資料を作成する
ということもないだろうし。

選挙を通じて良識のある人を選び、変えていくしかない、
変えていかないと国が破綻し、自分達の子供たちが暮らしにくい国になってしまいかねない、
ということを改めて思います。選挙しよう。